「愛」とは傲慢で自分勝手なもの

「愛」という言葉の美しい響き

世の中で「愛」ということばが語られるときは、非常に美しく綺麗なものとして語られる

愛する人を守る

愛する人の幸せを願う

愛とは尊いもの

しかし、「愛」というものを客観的に冷静に見れば、けっして世の中でもてはやすほど美しいものでもないとわかる。

愛とは平等ではなく不平等・不公平なもの

まず、愛とは、特定の誰かや集団に向けらたものである。

分かりやすい例言うと、妻や家族への愛。

自分にとって大切に思う妻や子供を愛する。裏を返せば、自分にとって主観的に大切ではない、どうでもいいものには愛は向けられないのある。

「恋人を愛する」など典型的な不平等です。自分の好みで好きになった相手には愛を向ける。しかし、自分の好みでもない相手には愛など向ける必要はない。

このように「愛」とは、対象の限定性をもった狭い概念であり、本質的に不平等である。自分が向けたい相手にだけ「愛」を向けるのですから、それは人間の自分勝手、傲慢ともいえる概念でしょう。

博愛は平等な「愛」か

「博愛」という言葉もあります。

これは広く不特定の人を愛する(大切にする)という概念です。

しかし、「博愛」は、宗教的なワードとしてはともかく、一般の生活の中で「博愛」は語られることはほぼありません。

 

基本「愛」は、「博愛」とは真逆の概念である、やはり特定の人への「偏愛」として使われるのです。

 

「愛」は悪ではなく、人間の感情の本質にすぎない

では、ここまで「愛」を自分が好きなものを大事にするだけの身勝手なものと否定的にとらえておいて、結論として傲慢な「愛」は悪なのか?

愛が本質的に不平等・傲慢なものだとしても、それが「悪」かというとそれはまた別次元の話です。

それは良くも悪くも人間の本質として理解されるべき問題です。

俗的に言えば、

「人間は、自分の好きな人しか愛せないよね・・・」、という話です。

自分と関係ない相手、自分の嫌い相手、自分に嫌がらせをしてくる相手、これらすべてを愛せよという博愛は、現実生活レベルでの実現はやはり不可能な話になるでしょう。

「愛」偏在についての認識していることが重要

好きな人だけを勝手に「愛」して、それで社会的にはやむを得ないとしても、このような愛の本質について認識しておくことは重要です。

すべての人がみな平等に愛されるわけではないということです。

愛されないことが悪かといえなば、それも違っており、人間の多様な状況の中の一つにしかすぎません。愛される人もいれば愛されない人もいるということです。そしてそれは人間の社会では当たり前といことです。

こういうと、他人に愛されないのは本人に原因があるだけでは?と考え人もいるでしょう。

しかし、人間が愛を愛するという現象は複雑すぎて、本人の自助でどうにもならない場合も多いのです。

また、愛されない人に愛されるように努力を促すのもまた違います。人は誰かに愛されるために生きるかどうかは、個々人が決めればいいことですから。

逆に言うと、たとえ誰にも愛されない人がいたとしても、人生を幸せに生きることは可能です。愛を人生においてどの程度の幸福要素(Crucial Success Factor)にするかは、個々の人生観次第ですから。

やや極端な表現ですが、「愛とは、個人の身勝手で限定的なやさしさ」ぐらいに考えておけば、愛を妄信せずに現実的に生きるにはちょうどいいかもしれません。

 

社会問題と愛の関係

ここまでは、個々人の話ですが、大きな社会の問題としては違ってきます。

世の中に起きている社会問題、国際問題、紛争などの本質を理解するにおいて、「愛の偏在」は非常に重要です。

政治の不平等な扱い(いわば愛の偏在)は、多くの問題を引き起こします。

特定の人間・集団だけを優遇したり特別扱いしたりする外部的行為や施策です。

こういうった構造的な格差、差別、不平等を引き起こす原因となる「偏愛」は、抑制されなければなりません。これは、個人が誰を愛するかという主観的な自由とは次元が違う問題なのですから。

 

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